「空気」の研究/山本七平

読みにくい、この本、とにかく読みにくい。読み進むのに時間がかかってしまうために、読み終わるのにひと月もかけてしまった。細かい章立てもなく、一つひとつの文章が長いので論旨を追いかけるのがとても大変なのだ。頭の悪いわたしにとっては拷問のような文章だ。それでもなんとか読みきったぞと。

本書がテーマにしているのは、タイトルの通り「空気」のこと。空気とは、意識合わせもおこなっていないのに、全員の意識が統一されている「あの感じ」のこと。「あの感じ」って「今さら言ったところで何になるの?」という雰囲気が全体を包み込んで、その場が重苦しく、口を開くのも嫌になる、あの感じのことだ。

本書では、この空気が形成される原因として「臨在感的把握の存在」と言う。そこには「何もないのに見えてる絶対的な存在」があるがゆえに空気が形成されるのである。

この空気という存在は、日本だけと思っていたが、本書によると海外ものあるそうだ。ただ「あうん」の呼吸的に一斉に全員が同じ感情に包まれる「あの感じ」は日本特有のものだと思う。私の経験で言えば「あの感じ」が出来上がるときは、必ずそこに「声の大きい奴」がいる。そもそも「声の大きい奴」の主張が間違っている場合は、反論することも難しくはない、その主張がなんとなく正しいときに「あの感じ」になることが多い。

日本人には、この「なんとなく」な感じを共有できるおかしな特性がある。キリスト教イスラム教、ユダヤ教など絶対神がいる宗教を信仰している民族では「なんとなく」な感じは共有できないだろう。これら宗教の神は一人であり、神の教え以外は正しくないので、意見の排除は比較的容易だ。神が言っていないことは排除すればいいだけである。
しかし、日本には八百万の神が存在し、なおかつ仏も存在する。「その意見はどの神の考えか?」と問いただし、原典に当たっていては時間がいくらあっても足りない。
「どの神様が言ったかは知らんけど、神様が言っているから正しいんでしょ?」的なノリが日本人全体が共有している「なんとなく」正しいの感覚なのではないのだろうか。

たまたま、意見の原典を知っていたりすると「あれ?それおかしいんじゃね?」ということが言える。本書では、この行為を「水を差す」と呼んでいる。

「あの感じ」でことが進んでいくと、全体に閉塞感・疲労感が漂い、やる気がどんどん削がれていく。「あの感じ」に付き合っている連中は、そもそも、何が間違っているのかを正確に把握していないので、流れに身を任せるしかないのである。ただし、現状に疑問は持っているので、内心は消極的な否定をしているにもかかわらず、外見では消極的な肯定をしていくしかない。気持ちと行動にギャップがあるのだから、ハツラツとはしていられないのは当たり前の話だ。

で、この「なんとなく」から脱却する答えは、本書から探し出すことはできなかったのだけれど(探しだせなかったのは本書のせいではなく、私の読解力が低いからだ)自分なりの結論としては、一人ひとりが知恵を持つことだなと。つまり、本を読んで賢くなるってこと。う〜ん、こんな安直な感想で良いのだろうか???