君たちはどう生きるか/吉野源三郎

コペルくんは中学2年生。勉強もいたずらも頑張る元気な少年です。コペルくんという名前はもちろんニックネーム。地動説を唱えたコペルニクスにあやかって、コペルくんと呼ばれるようになりました。

名付けの親はコペルくんのおじさんです。コペルニクスは地動説の最初に唱えた科学者。社会から批判されることを承知で、地動説を発表しました。おじさんは、本当のことを言う勇気を忘れないでと願いを込めてコペルくんと呼んだのです。

本書は、コペルくんが生活の中で感じたことや経験したことを、おじさんとのコミュニケーションを通して意味を見つけていくという物語です。

いじめ、貧困、世界、友情、勇気、裏切り、歴史など、身近なものから大きなものまで、本書の話題は多岐に渡ります。

これらの話題は、誰もが幼いときに経験していることです。ただ、これらのことに正面から取り組んだひとは少ないでしょう。
コペルくんは、おじさんのアドバイスを受けながら、これらのことに正面から取り組み、自分でしっかりと考えるのです。

自分を成長させるために必要なことは何なのか?
本書からは、2つのメッセージが見えてきます。

世界とのつながりを理解する

コペルくんは、銀座のデパートの屋上からうごめく人々の姿を見て、「人間分子」という言葉を思いつきます。人間ひとりひとりは社会を構成する分子で、それぞれの分子がそれぞれの役割を担うことで社会が構成されている。

ひとは、誰かの支えなしに生きてはいけないのに、大人になると自分中心にものごとを考えるようになります。自分中心になる弊害としておじさんは、コペルくんに次のことを言います。

自分ばかりを中心にして、ものごとを判断していくと、世の中の本当のこともついに知ることができなくなってしまう。大きな真理は、そういう人の目には、けっしてうつらないのだ。

また、コペルくんは、粉ミルクのカンを見て、粉ミルクが自分の口に入るまで、さまざまなひとを経ていることを発見します。オーストラリアで牛の乳を搾るひと、工場まで牛乳を運ぶひと、粉ミルクに加工するひと、缶に詰めるひと、港まで運ぶトラックの運転手、汽船に詰め込むひと・・・そして、コペルくんの近くのお店で売るひと。

私たちが日常生活を営む中は、私たちが直接会うことがない多くのひとが関わっています。意識しなくても、私たちはこの社会システムに組み込まれています。ごく当たり前の事実ですが、けっして忘れてはいけない事実なのです。

自分の頭で考え、自分で行動する

世の中には、理不尽なことが多くあります。理不尽な出来事の根底には、不均衡な力関係が常に存在します。

おじさんはコペルニクスからコペルくんのあだ名をつけました。本当のことを言う勇気を忘れて欲しくないとの思いからです。本当のことを言うためには、さまざまは情報を集めて、それが正しいかどうかを自分で考えて判断しなければなりません。

また、集めた情報の価値を判断するには、自分自身が勉強して知識を増やす必要があります。考えていてばかりでもいけません。考えて出した答えを実行しなければ、何かを変えることができません。

おじさんは、クラスで発生したイジメの話を聞いて、りっぱな人間として生きるとはどういうことかを語ります。

だから君も、これからだんだんそういう書物を読み、りっぱな人々の思想を学んでいかなければいけないんだが、しかし、それにしても最後の鍵はーコペル君、やっぱり君なのだ、君自身のほかにはないのだ。君自身が生きてみて、そこで感じたさまざまな思いをもとにして、はじめて、そういう偉い人たちのことばの真実も理解することができるのだ。数学や科学を学ぶように、ただ書物を読んで、それだけで知るというわけには、けっしていかない。

学習は大変に尊いものですが、知識として積み重ねるだけでは意味がありません。知識を智恵に変えるものは経験です。経験を得るためには、自分で行動するしか方法はありません。

生きることは

本書は、中学生向けに書かれていますが、少年が心おどらす冒険活劇ものではありません。上級生にいじめられている友人を心ならず見捨ててしまうコペルくんは、けっしてカッコ良くありません。また、おじさんがコペルくんに話すギリシャ人と仏教像の関連の話は、けっして簡単ではありません。

本書は、包み隠すことなく人間の弱さ、人間の醜さを語ります。人間は完璧ではないことを前提にしながら、自分で考えて行動することの尊さを作者は説くのです。

本書が発売されたのは、1937年です。第二次世界大戦終戦の8年前です。本書の発売から長い時間が経過していますが、作者のメッセージは色あせることなく、現代の社会状況を示唆しているようです。