多読術/松岡正剛

読書という行為について

読書を「読書は大変な行為だ」とか「崇高な営みだ」などと思わない。読書は、ファッションと同じで、お気に入りのものを組み合わせるように読んでいけばよい。

難しい本を読むと「どうも頭に入らない」とあきらめたり、うんざりしたり、自分にガッカリしたりする。これは、全力で本を読もうとしすぎているからである。
著者の思想や書き方、言葉づかいは、読み手が持っている受容能力では、処理でいないものもある。これは、仕方のないことであるので、そこで自分を卑下する必要はない。
本を読む際には「感読レセプター」のスイッチを入れる必要がある。「感読レセプター」とは、味覚を感じる舌のようなもので、本に書かれていることを感じとるためのセンサーである。
多くの本を読みすすむうち、どんどん「感読レセプター」の感度が良くなり、以前は読めなかった本も読めるようになる。

そもそも読書は、マゾヒスティックなものである。「参った」とか「空振り三振」することも重要な経験である。わかったふりをして読むより、完封されたり脱帽するのも読書力をつける重要な経験になる。
プロ野球でも、優秀なバッターの打率は3割5分程度でしかない。読書も同様に3割5分程度のあたりがあれば十分と考えればよい。

読書は、「無知から未知へ」の旅なのである

読書の方法

目次読書法

古典や小説を除けば、目次には、その本の最も良くできたアウトラインが示してある。本を読み始める前に、目次を3分程度ながめて、その本の内容を想像する。
これによって、自分と本との間に柔らかい感触構造(知のマップ)が立ち上がり、本の世界により早く溶け込めるようになる。

あとがきから読む

あとがきから読んで、本に対して興味がわき、本を読む気持ちができあがるのであれば、あとがきから読んでもいっこうに差し支えない。
ただし、あとがきは本のサマリー(要約)になっていることは少ないので注意が必要である。筆者があとがきを書く場合は、本を書いたきっかけや、付言や弁解を書いてる場合が多いので、読み手の読む気を呼び起こす決め手に欠く場合が多い。
翻訳物の場合は、訳者があとがきを書くことが多い。この場合は、サマリーになっていることが多いので、あとがきから読むことをおすすめする。

読書をおもしろくするには

一般的には、(1)良い本を読む、自分にあった本を読む、(2)じっくりと読了する、よく理解しながら読む、(3)自分のペースで読む、量より質を選ぶ、といわれているがこれを実践するのはとても困難である。
それならば、理解できなくてもどんどん本を読んで、自分のペースや好きな本を探していった方が効率的である。

速読にとらわれない

速読にはとらわれない方がよい。速読とは、まるで早食い競争をするようなもので、体によいものではない。
本を読む速度は、自分が感心のある分野の本、または知識のある分野の本は、早く読めてしまうものだ。
これは、頭の中に「略図的原型(意味の似顔絵)」が形成されているため、早く読めるのだ。だから、速読自体を読書の目的にしてもあまり意味がない。
速読を覚えるより、略図的原型を頭の中に増やした方が、どんどん本を読みすすむことが可能になる。

読書方法について

読書法

読む前に、(1)関心のある項目が書内のどこに書いてあるのか予想しながら読む、(2)読書によって違う時空に入ったことをリアルタイムに感じながら読む(何を得たか、何を感じたか)
この2点をはっきりと意識するために、読書中は用語や単語、気になる文にマーキングしながら読むとよい。
本は、読んで得たことや感じたことを編集していくノートなのである。
1冊の本を読み終わったからといって、読書体験を経験や記憶からデリートまたはリセットしてはいけない。体験を消さずに残すことで、次に読む本の読解力につながっていくからだ。

多読を進めるために

多読を進めるには、ジャンルにこだわらずに好きに読んでいくのがコツである。得た情報や知識は記憶構造にしまわずに、頭の編集構造にしまうため次のようなノートにマッピングするとよい。
○クロニクル・ノート
読んだ本の年表を綴ったノート。
(1)ノートを数冊用意する。
(2)1万年前から紀元前、現代までの変号をノートに適当な間隔で振っていく
(3)読んでいる本に年号が出てきたら、その事項をノートに書き写す。
○引用・ノート
興味のあるジャンルごとに本の内容を転記するノート。
(1)ノートを数冊用意する。
(2)各ページにタグを入れていれていく。例えば、論理のおもしろさ、当初のイメージ、イメージの分岐、数学的表現、エロティシズム、せつなさ、知的ジョーク、漢詩の一節、ハードボイルド感覚など。
(3)タグに関連する項目をタグのページに書き写す。
読書を一回の体験に終わらせるのではなく、読書体験のつなぎを作っていく。多読術はここから始まっていく。

キーブックを探す

本を何冊も同時に読む方がよい。多読を進めるには以下のような読み方が効率的である。
(1)本を読む時間を短縮するために、似たような本は一緒に読むか近い時期に読む、(2)本のテーマは決して独立している訳ではない。書内に紹介された本を渡り歩くように読む、(3)キーブック中心にして読み進む。
多読読み、同時読みを進め、ジグザグと本を読むことで「光を放つ一冊」が見つかる。これがキーブックで読み手の読書ツリーはキーブックを中心に形成される。
いくつものキーブックが結節点となり、柔らかい系統樹を示すようになってくる。

読書の効用

読書はわからないから読むもので、けっしてわかったつもりでは読まない。「無知から未知」への旅が読書の効用なのだから。
作者自身もわからないから、本を書いている。読書の効用は人それぞれであり、読書の効用を問うということは、役に立つ人生とは何かを問うようなものだ。

読書はコミュニケーション

読むこと、書くことは

読むこと、書くことはコミュニケーションのひとつである。筆者が送り手で読者が受け手ということではない。書くことも、読むことも「双方個的なコミュニケーション」と考える。そこには、「書くモデル」と「読むモデル」があり、これらを交換、相互乗り入れすることで「双方個的なコミュニケーション」になる。これをエディティングモデルと呼んでいる。

エディティングモデルは意味の交換を成立させているものである。
コンピュータのコミュニケーションは送り手と受け手でメッセージを交換している。メッセージは符号化され、通信回線の中で劣化したり、変質しないことを不可欠の条件としている。人間のコミュニケーションは、メッセージが劣化したり、変質したりすることが前提条件になる。メッセージが変化しても、コミュニケーションが成立できる理由は、社会のどこかに「理解のコミュニティ」が存在しているからである。お互いが「理解の届け先」を想定しあっているのである。

これは「メッセージを交換」しているのではなく、「意味を交換するためのエディティングモデルが動いている」のである。

情報編集とは

記憶は分子のようなものが局在しているのではなく、脳内の場のようなものを活用して、記憶の図柄を動かしていると考える。言い方を変えると「情報が記憶にあてはまっていく」のではなく、「編集構造が情報によって記憶されていく」ということなのだ。
人間がコミュニケーションや表現できるのは、そのような能力によっているのではなく、これらを連結させるための編集構造が基礎となり、コミュニケーションや表現を行わせているからだ。

広場で遊んでいる子どもたちの和に、もうひとり子どもが入ってくる。その子はその場の雰囲気から何かを感じようとする。言葉だけではなく、情報をやり取りしていた雰囲気やモダリティ(様子)やちょっとした片言隻句から感じ取っている。
コミュニケーションは記号変換ではなく、「編集構造の断片」やエディティングモデルを探りながら交換してる。
つまり、コミュニケーションとは「メッセージ記号の交換行為」ではなく、「意味の交換」のために行われている編集行為なのである。

本来のコミュニケーションはその場に生じている先行的な編集構造が先にあって、そこに自分なりの「抜き型」を作っていくこと。読書とはまさにこの抜き型を作る行為である。

読書とは

読書とは、筆者が「書くモデル」を作ったところへ、読者が自分の持っているエディティングモデルを投げ縄のように投げ入れて、そこに読むモデルをくくって自分に引き寄せて、何かを発見していくことである。

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